セールスフォース.comが日本人ウケしない理由

これは実際に私が体験した感想を交えて。(Salesforce - セールスフォース・ドットコム)
私の偏見が含まれる可能性には注意を願いたい。

使用した感想

 これは、私が実際に使用してみた時の感想。はっきり言って分かりづらい。私と同じ感想を持つ人間は多いのではないだろうか?何から始めればいいのか、迷うのである。機能は多種多様、用途も含め様々に使えるようにできている。確かによくできている。が、とっつきにくい。「使いにくいから、使ってみて」と上司に言われたので利用したのだが、思わず納得してしまった。

使用しにくかった理由

 私の場合を簡単に説明すると、アイデア管理と商品管理のために利用しようと思っていた。そこで私がまず始めにしたこと。
とりあえずUI上から不要な機能を全て削除していった。何が一番の問題か?それは、多種ユーザを想定しすぎているために、機能が多すぎたことにある。不要な機能を削除した画面はすっきりとして見やすくなった。ちなみに、私に試してみてと頼んだ上司も「あ、これなら使えるかも」と笑っていたという次第である。
 使用することに慣れてきてから、様々な機能を試して追加という形でカスタマイズをした。「よく出来ている」と感じたのはその後の話である。第一印象は「こりゃ、確かに使いずらい」であった。

アメリカ的感覚と日本的感覚の違い

UIをカスタマイズできることはいいことである。しかし、それを行うのは利用を始めてからすぐにという訳ではない。

日本人のカスタマイズの流れ

初期機能→試用→追加→試用→機能変更・作成


というのが大まかな流れではないだろうか?カスタマイズの中心は「追加」ではないだろうか。
必要に応じて機能を追加していくイメージだ。

一方、アメリカ人のカスタマイズの流れ

初期機能→試用→削除→試用→機能変更・作成

今度は、カスタマイズの中心は「削除」。
これは不要な機能は削除していくイメージである。

当然、ディフォルトで使用できる機能に差が生じる

追加するためには、「できるだけシンプル」でなくてはならない。
削除するためには、「できるだけ多くの機能を見せておく」ということになる。


この違いが、利用しやすさの感覚に決定的違いが出ているのではないだろうか?
日本人「これって、こういういうことできる?なら、使ってみるか」
アメリカ人「これって、あれもこれもできるのか?使って損はないだろう」
という言葉で出てきそうである。

確認してみたい事項

サンドウィッチのSUBWAYをご存じだろうか?有名なファーストフード屋で、中に挟める具を自由に指定できるのが特徴だ。
私の想定が間違っていなければ、両国で以下の差が出てくる筈である。
日本人「あれ と これ と それ を入れて。」
アメリカ人「あれ と これ と それ を入れないで。」
つまり、「入れて」というか「入れないで」というかの差である。もちろん両国でも、各個人に差があるだろう。
しかし、それぞれの国でどちらか大多数を占める考え方か?
それを確認したいわけである。

最後に

「入れて」というか「入れないで」というかの差があるということは、国によってUIを変える必要が生じることを意味しているのではないか。
ディフォルトをどうするか?それは、文化によって異なるのかもしれない。
余談だが、アメリカ人は大阪人の「貰えるものは貰っとけ」みたいな考え方に近いのかもしれないと、私はセールスフォースから受け取ったのだが。
如何だろうか?

*1:※後日ブログにて書くかもしれませんが、現時点でその会社を退職しました。

「悲しい日になるか、ならないか」それが問題だ。

本日、私の誕生日です。いや、ほんと、どうでもいい。歳?数えるのもめんどくさい。生年月日は覚えてるけど。書類とかで書かされるから。
誕生日を祝う風習ってどこから来ているのだろうか?

もともと誕生日や節句を祝う風習は、両親や両家の祖父母をはじめとする親類縁者の「祈り」が起源です。

http://www.12ack89.com/Oiwai/1-2Birthday000.html

本当かどうか知りませんが。私は、てっきり宗教が関係しているかと思いましたが。例えば「キリストが誕生しためでたい日」として祝っていたのが、大衆化したもの。ま、そんなことはどうでもいいか。


ところで、誕生日を嬉しく思う人ってどれくらいいるのだろうか?私も小学生くらいの時には嬉しかったものである。ところが、今はどうだ。誕生日を嬉しく思う?いや、この日がとても悲しくなる。私には「おめでとう」と言ってくれる人もいる。何がおめでたいのか?「この歳まで、生きてこれたこと」というのだろうか。気持ちは分からないでもない。起源が祈りということは「もっと長生きしてください」という意味も込められているのだろうか?


また、一年。ああ、一年。寿命が削られていく。その一年でしたことって何だろうか?
人生の残りが減っていくことを痛感する。そんな日だ。
いっそのこと、喪服でも着て「今日でちょうど一年分死にました。大変残念なことです。」とでもして欲しいと思ったこともある。


純粋に誕生日を喜ぶ人が日本にどれくらいいるのかは知らない。しかし、私の様に喜ばない人はどれくらいいるのだろうか?
「おめでとう」という言葉が慰めの言葉に聞こえてくる。
「慰めも無いよりあった方がいい。」と思ったりもする今日この頃。



「また、一年分死んだね。残念だよ。」と言ってくれる人がいるのだろうか?
「おめでとう。おまえの寿命が消費されたと思うと本当に嬉しいよ。」という厭味を言ってくれる人はいそうだが。
私は敵も味方も多い方ではない。声をかけてくれるだけでも、本当はいいのかもしれない。
ただ、私にとって嬉しい日ではない。


「悲しい日になるか、ならないか」それが問題だ。