情報と幸せ。なりたい自分となれない自分。

「幸福論」にも色々あるが、自分の中の幸せの定義はこうだ。
「自分がなりたいと思っている自分にどれほど今の自分は近いか?」
自分の中で、「これはこれで、ありだな」と思ったとするなら、それが新しい自分のなりたい姿であり、「他人から不幸な人生」って言われる人生を歩みたい。って思ったならそれに近いかどうかだけだ。


なりたい自分というものにも、多種多様あって、それは、時に漠然としていることもある。近いかどうかを意識しないことだってある。ほとんどは、意識しないのだけど、幸せだった時や不幸だった時を考えると、その時々に自分がこうありたいって思っていたときの差になって表れていると思う。
そこで、自分がなりたいと思っている自分ってものを考えてみる。


確かに、ウェブというものは、情報の宝庫で様々な情報を簡単に手にいれることができる。しかし、それと同時に思うのだ。
「自分の幸せはまた一つ遠くなってしまったなあ」と。
自分の中の情報が多いとそれだけ、なりたい自分に対する選択肢も増える。生きるか死ぬかしかない二択の世界であって、仮に生きたいと思う自分が、生きているならそれだけで幸せだ。
しかし、情報が増えてくると、こうありたい、ああなりたい自分の幅がどんどん増えてくる。
自分の中に細かい要求が増えてくる。そこには、当然、現実の自分との差が増えてくる。すると、幸せになる条件がどんどん増えてきてしまう。


贅沢な悩みなのかもしれない。確かに、ウェブは、現在の自分の幸せに近づくために役に立つ。ところが、それと同時に、どんどん幸せになるのが難しくなってきている気がしてならない。インターネットを見ていて時々、思う。
全く見なくなったら幸せになれるんじゃないかと
それでも、やめられないのは、そんな中で、「幸せになりたい。」という自分に半ば矛盾した、漠然とした思いがあるのかもしれない。
こんな情報過多の世界で、それでも、なりたい自分に近づけている人がいる。
「こんな情報の多い世界で幸せなやつは、なんて強いやつのだろう。」
そう思えてならない。