偽善と優しさの境目

 偽善とは何だろうか?優しさとは何だろう?
ということを少し考えてみた。

1.食べるのもままならないAさんにBさんはパンをあげた

 この文章を読んでBさんはどのような人物だと思うだろうか?優しいのだろうか、そうでないのだろうか?私がAさんであれば、Bさんのことを優しい人とだと感じるだろうと思う。では、次の文章はどうだろうか?

2.BさんはCさんから多額のお金を手に入れるために、食べるのもままならないAさんにBさんはパンをあげた。

 実際にこのような状況があるかは分からない。しかし、この場合Bさんの目的はCさんからお金を手に入れることが目的だ。だが、この場合も変わらないのは、Aさんの立場になって考えればBさんの目的が如何なるものであれBさんは優しい人物だと私は感じると思う。ところが、多くの場合このケースでBさんは全くの部外者に偽善者扱いされてしまうのではないか?そう私は懸念する。AさんからすればBさんの目的がB自信の利益であった場合でもパンを貰ったという事実は変わらない。では、こんな場合はどうだろうか。

3.Bさんは食べるのもままならないDさんからパンを横取りして、食べるのもままならないAさんにBさんはパンをあげた。

 この辺りから少し曖昧になってくる。それはAさんが「Dさんのパンを横取りした状況」を良しとするかどうかが大きい。Aさんから見てそれでもBさんを優しい人物かどうかと言われると少し悩む。ただ、Aさんがその状況を知らなければBさんを優しいと思うのであろう。

優しいとは

上の様に単純な行為でもその観測の幅を広げると様々な要因と結果が起こり得る。
 実際に優しいとは一体どういうことなのか非常に難しい問題である。仮に全ての出来事を把握できる神の様な存在がいたとしたら、それは決して「優しさ」というものを定義しないのではないか?ある行為を起こした時にそれにより干渉されるすべての出来事を見たとき、それは「優しい」という言葉では言えないような厳しさが後ろに広がっている。その関係する出来事全てを把握できないから優しいと感じるのではないか?人間が無知であるから「優しさ」という言葉が作られるのではないか。このAさんとBさんの外側から別の存在として見たとき、それはあたかも偽善のように見えてしまう。


それでも私は他者に対して優しさを求める。正しきものを求めるように。限りないエゴだと知りながら。