誰も教えてくれなかった「謝罪悪」。

帰宅途中、電車の中である中年男性に足を踏まれた。その男性は何事もなかったかのうように、電車を降りて行った。さも、「電車の中では踏むことくらい当たり前だろ」と、言わんばかりに。間違いなく、その男性は気づいていたであろう・・。どうってことない、本当によくある些細な出来事である。普段なら気にも止めない出来事だ。


しかし、なぜか今日は一瞬、違和感を覚えた。それは、自分ならひと言「すみません。」と言ったはずであるということ。謝罪を期待しているわけではない。ましてや、それを強制もする気はない。ただ、自分にとっての、当たり前が、他人にとって当たり前でないことに気づいたにすぎない。


「謝罪悪」
謝ってはいけないのだ。謝るということは負けること。いや、謝るということは、自分の非を認めること。認めてはいけないのだ。例え、自分が悪いと思っても。それを確定する要素がない、つまり証拠がない時に謝ってはいけないのだ。営業などでは、よく、「申し訳ありませんでした。」という声は聞く。しかし、あれも、間違いなのだ。謝った瞬間、「謝るようなことなら、はじめからするな」と叱られる。そう、証拠もなく謝ってはいけないのだ。


自分が小学校の時、先生から親から、「悪いことをしたら謝りなさい。」と教えられた。あれは、間違いだったのだ。
クラスの子に、借りてたものを壊してしまった。ただ、壊したことを知っているのは、自分と借りた相手。その時、自分は、すぐに謝った。
「ごめん、壊してしまった。」と。
あれは、間違いだったのだ。やるべきことは、ただ一つ、
「これ、初めから壊れてた。」
と、借りたものを返すべきだったのだ。知っているのは、自分と相手の二人だけ。その借りた相手とは、仲良くする気もなかった。友人だったら、謝ってでも仲良くするかもしれない。しかし、違う。
ここからは、想像の話だ。
おそらく、借りた相手は親なり先生なり、どちらかに言ったであろう。先生だったとしよう。
自分の担任だった先生ならこう言うと思う。
「どうして、壊したりしたの。正直に話しなさい。」みたいなことだ。
そこでも、謝ってはいけない。
自分が答えるべきことは、
「言いがかりは、止めてください。」
そう、証拠もないのだ。知っているのは、その子と自分の二人だけ。
「嘘を付いてはいけません。」
「本当のことです。言いがかりは止めてください。」
そんな風に答えるのが現代社会を生き抜くための答え方だ。
仮に後に完全に証拠つきで発覚しても、その時、謝ればいい。今の政治家のやり方でも、そうしてる。それが現代の常識だ。
「確定するまで謝るな」「証拠がなければ、隠し通せ」「自らから悪者になるな」


父よ母よ先生よ友人よ。
あなた方が教えてくれたことは、今の自分にとって役に立つことばかりだ。
感謝もしてる。
だが、ただ一つ。なぜ、自ら謝罪などしてはいけないと、教えてくれなかった・・?
とにかく、自分は、すぐに謝る癖が付いてしまった。
そして、今日も、無駄に謝ってる。