1500万円の絵が1000円で売られていたら・・。

仮にNYで売られていたものと、同じ絵が、古臭いお店で1000円で売られていたとしたら、その絵に1500万円の価値を見出す人は、どれくらいいるのだろうか?


 私自身、おそらく、せいぜい、どう頑張っても、数万円の価値しか見出さないだろう・・。ところが、仮に一流の美術家であれば、この絵に1500万円の価値を見出すかもしれない。
私は、そこに、なんらかの蟠りを感じる。
1500万円も出してこの絵を購入した人が、この絵は素晴らしいという感想を持つならば、その価格による偏見が内在しないだろうか?
きっと、一流の美術家であれば、1000円で買ったとしても、
「この絵は素晴らしい」
と、言うはずである。
 彼らは、1500万円の価値をこの絵に見出したのではないと、私は思う。
この絵が1500万円したからこの絵にその価値を見出したにすぎない、と。


仮に芸術の適正価格を算出するアルゴリズムがあるとするならば、そこには、幾分かのカオスが存在するのではないか?
つまり、バタフライ効果が、微塵もなく現れるはずだ・・。少し価格が上昇すれば、その分だけ、価値が上昇することになり、それにより、また価格が上昇するという、ループが発生する可能性を秘めている。また、その価格による価値の上昇は、絵の鑑賞者によって、変動する。理論上の変動率は、イデア的な美術家の場合で、1。つまり、価格によって、変動しない普遍的な価値を見出す場合である。
 さらに、外部からの情報も、芸術の価値に影響を及ぼす。
それは、ある特定の他者が
「この絵は素晴らしい。」
という、発言をした場合も、自分にとって、その芸術の価値が変動する。いわゆる、偏見だ。


ところで、仮に、コンピュータにより、芸術の普遍的な価値が算出できたとしよう。
それが、出来たとするならば、その芸術の普遍的な価値は算出できるかもしれない。いや、普遍的な価格になり得るかもしれない。
つまり、今度は、その計算値によって得られた値により、人間の偏見により、
「この絵は、このような価値のある絵である。」
という、見方しかできなくなりうるのではないか?
それを、芸術の価値としてしまうのは、あまりにも、馬鹿げていると、感じる。
なぜなら、芸術の価値というものは、人間の評価により、決定されるべき値であり、計算によって得られた値に、人間が評価を合わせるというのは、本末転倒だ。


結局のところ、絵の適正評価なるものは、さまざまな要因が重なり、1500万円という価値が存在してしまった以上、
その決定値(現実に存在する価格)こそが、適正評価としか、言えないのかもしれないと、
私は感じる・・。