生きている文章死んだ文章〜ブログと著書〜

※少々、予定を変更してお送りいたします。(私の予定を知る人はいませんが。)



はてなユーザの悪役の皆様へ - ペン君流ことわさ日記。
の誤字、誤用について考える。


 私自身、いくつかの誤表記には気付いている。(指摘されて気付いたものもあるが。)
 そこで私は、一度あの文章の文意自身を削除することにしてみた。(そもそも、大した文章ではないなどと、指摘される方もいるだろうが、何らかの影響があったのは、ブクマを見れば分かる。)つまり、「はてな赤ペン」として、文章をそのままに記事を追加した。すると、どうであろうか?これはあくまで、書いた私が、自分の文章を見ての感想だが、
同じ文章であるにも関わらず、文章から受ける印象が一変した。
文章そのものがシラケテ見えてくる。文章自身の意味が、あまりにも希薄だ。(もともと希薄な文章しか書けないけど)おそらく、始めに文章を読んでブクマコメントしていただいた方の中には、「なんじゃこれ?」と驚く方もいるのではないか?
 ブログというものは、作者の生きた文章だ。
タイムラグはあるものの、作者の生の声に近い。だからこそ、誤字や脱字も存在している。ちょうど、人がしゃべる時に舌を噛むのを想像してもらえばいい。しかし、文章の推敲をし始めた瞬間、最初に持っていた、作者の荒々しさや優しさ等、人間臭い部分が失われていくのではないか?
 次第に文章は死んでいく。
 そう意味で、著書は死んだ文章だ。言わば、標本の昆虫や花弁と同じようなものである。それを悪いというわけでは決してない。誤った表現は論理を展開する上でこの上なく邪魔なものだ。
だが、推敲という処理を行った瞬間から、作者のリアルタイムの感情は失せてしまうと私は考えている。
いや、そう感じている。初めから完璧に書いている人間はいないし、推敲しきった後でも、誤りはあるだろう。ところで、声に出してしゃべる時、完璧に推敲されたことばを発する人間はいるだろうか?「誤り。」それも、含めて、作者の人間性を垣間見ることができると私は思うのだ。
そういうわけで、私のブログでは、最低限の推敲以上はしないようにしている。そもそも、私は議論したいのではない。世の中に私という人間を叫びたいのだ。(無論、それをウザイという人間は大勢いるのだが)


 そこで、この文書をもう一度見ていただきたい。
仮にあなたが、この文章の誤りに愛着が湧くような人物であるなら、きっとあなたは私自身のことを見てくれる人物であろうと私は思う。

はてなユーザの悪役の皆様へ

 いつも、ネガティブコメント、イナゴ活動、その他ご苦労さまです。
あなたがた、悪役がいらっしゃられるおかげで、清廉潔白なはてなユーザは、その正義感を思う存分振るうことができます。


 このご時世、善人になるために、仕立ててまで悪人を作らなければならなければ、ならないこともある中で、貴殿の活躍ぶりは、非常に際立ち、目に見張るものであります。悪人になっていただくためにも、幾分かの、金銭が必要な時代であるにも関わらず、そのボランティア活動、誠に感謝いたします。
 これからも、その活躍ぶりを、祝福しますとともに、精錬潔白なユーザの叩き役になっていただけることを心からお願い申しあげます。


 最後になりましたが、精錬潔白であられる、はてなユーザの皆様方には、、悪人の頑張りに恥じぬよう、また、その努力を無駄にせぬよう、思う存分に力を発揮していただくことを、ここにお願い申し上げます。

ブクマに対するコメント

本気で文章が死ぬと思ってたらそれは考え方を改めたほうがいいと思う。いついかなる時思わぬ所で自分が過去に書いたエントリが使われるとも限らないのだから

おそらく、過去のエントリが使われるときに、誤字だらけだと、単なる晒しものになるでしょうね・・。
それでも、私はアップしてしまった以上は、そのままにしておきます。推敲したい人がいれば、すればいい・・。したくなったらそのときに私はします。「あえて、推敲しないでいるのも、ありなのではないか?」というのが、私の議題です。
「死んだ文章」という表現が悪かったかもしれませんが、推敲された文章にはまた、違う価値が出てくると思います。
しない文書にも、それはそれで、別の価値があると思うのですよ。
これは、あくまで、私の趣向です。
未来で晒されている私もいるでしょうがね・・。
ちなみに、これは、私の「日々の日記」です。そういう意味で「日記」という名の著書でもありません。
新聞や歴史書、その他のニュースブログでもありません。
思いつくままに、間違いも気にせずに書く。そういうブログです。