疑問を失くした大人たち

 あなたは何故恋をしますか?
今日は疑問力なるものについて考えてみた。「あなたは何故恋をしますか?」という問を一体どれくらいの大人が考えられるのだろうか?これに対する解答は様々だ。生物学的な解答もあるだろうし、哲学的な解答もあるだろう。また、これに対する明確な解答を出せる人がどれくらいいるのだろうか?はっきり言えば、解答は一つではない。考えれば考えるほど深い内容になり得る問いだと私は思う。それ故に多くの大人は考えないのではなかろうか。「生物だから当然だ。」というような『当然』という一言で片づけてはいまいか。


 ところで、世の中の疑問の種は『当然』として片づけてしまっても生活には何ら問題がないことが多い。しかしその多くが自分の中で未解答ではあるまいか?
幼稚園児や小学生であったころに、「何で?」という質問を連呼して大人を困らせたことがあった人も多いのではないか?私もその一人だ。

子ども「何でこれをブログって呼ぶの?」
大人「ある人がそう呼ぼうって決めたからだよ。」
子ども「何でそう決めたの?」「何で○○なの?」「何で××なの?」

そう、質問に対する答えというものは元来尽きることはないほど深い階層まで存在している。
ところが、これらのことを『当然』と切り捨ててしまった時点で疑問の種は尽きてしまう。


『当たり前』だと思っていることを思い出してみると、当たり前でないことがほとんどである。
ところで、この『当たり前』というものを疑問視していると、世間からは幼いと見られがちになる。というのが私の経験談だ。しかし、何かしらの出来事を疑問視するという力は、はっきり言って大人は子どもに勝てるのか。


世間に関して知識や経験を手に入れたからと言って疑問の種が減るわけではない。知識や経験が増えれば増えるほど疑問に思うことが増えてもいいはずだと私は思う。
私はまだほとんどすべての物事の解答を知らない。『当たり前』を捨てれば、疑問の種は決して尽きない。