ぐりっ!ぐりっ!と否定すること

人が幸せになるために必要なこと、それは自分を如何に騙せるかである。*1
 別段、珍しくもないライフハックが何故、今日これほどの共感を呼ぶのか考えてみた。
「人が幸せになるかは如何に自分自信を騙せるかで決まる」これが私の持論である。
まず、簡単に説明すれば、外的要因によらず「幸せだなあ」と自分を騙せるかどうかで幸せ度が決まるという極シンプルな考えだ。極論、感情をコントロールできるような薬や機械があれば必ず幸せになれると私は思っている。悲しきもそれが自分という存在である。
 ところで、自分を騙すということは自分の中の何かを信じると言い変えることもできる。つまり人は必ず何かを信じて生きている。「私は信じられるものなどない。」と言う人にしても同じである。「信じるものがない」という信念以外は信じない。とでも言っておこう。

そこで否定を考えてみる。

 ライフハックの各項目ごとに否定を考えると受け入れられないことが多い。単にどっちでもいいのではない。項目を否定することで自分の信じてきたものを否定することになりかねないのではないか?例えば、「全ての人間関係を大切にしよう」というものがあったとする。もしこれが「人間関係なんて大事にするだけ時間の無駄だ」というものだったとする。そうすると人間関係で悩んだことのある人は思うのだろう。「じゃあ何で今まで私は悩んでいたの?」と。否定することは今の自分そのものの否定に繋がるわけである。
ところがである。現実はどうか?綺麗事だけで済むはずがない。それが厳しき現実の世界だ。自分の信じている自分が既に崩れかけつつあるわけだ。人間関係を大切にした結果、血を見ているやつが山ほどいるわけである。
 ところで、少し話が変わるがこう言う思いを感じたことはないだろうか。「嘘でもイイから優しい言葉が聞きたい」。嘘でもいいのだ。嘘だと分かった上でその言葉が欲しいのだ。何故か?それはひょっとするとという思いからだろうか。自分の崩壊を免れるために、自分で自分を騙すわけである。
自分は間違いではなかったのだと信じ込ませることで自我を保とうとするわけである。
否定できず共感してしまうのである。

二項対立ではない。

 仮にあなたが傷ついているのなら、そんな共感は捨ててしまうべきだと思う。人間関係で血を見たのならそれは失策だ。さらにその状態で同じように共感を覚えたとするなら、また血を見る羽目になる。ところでライフハックの各項目を否定するということは強ち悪いことではないと私は思う。ただ、それは完全否定ではない。「全ての人間関係を大切にしよう。」を「大切にする人間関係は全ての人ではない」としても構わないわけである。
 

その各項目と同じように行って傷ついたことがあるのではないか?私はそう推測する。正しくないものを信じていることはないだろうか?というのが私の意見だ。
感覚として共感できる内容ほど、まず疑ってかかるべきではないか?それでも信じたいのであれば、貫くことを私はおすすめする。

*1:これについては後日詳しく書きたいと思う