伝わらないことはどちらの責任か?

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127を読んでいて思ったこと。
http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080525/1211664691の方が公開当時のものに近いのでこちらを参考にする。

「可哀想じゃないですか致命傷の人を見捨てるなんて」とか言ってこられると、なにを聞いていたんだろうと思う。でもそういう非常事態では、特に医療資源は有限だからこそ、適切に配分しなければならないという考えなんだよ、とくどく説明した直後にまだそれを書くか。

http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080525/1211664691

果たして教え方が正しかったのか?
「なにを聞いていたか」ではなく「なにを言った」のかということ。教育とは、受け手が内容を理解して始めて成立するものである。たとえ教育者が発したことの全てが正しかったとしても、受け手が理解しなければ教育とはいえない。「くどく説明した」とあるが、相手に伝わらなければ説明ではなくそれはただのオナニーである。これが社会人の掟だと私は思っている。これが現在の教育その感覚は逆転しているように感じる。解らないのは受け手が悪い。そういう感覚があるような気がしてならない。もちろんコミュニケーションでありうる以上、情報を発する側、受けとる側の双方の能力が必要になる。

(付記:これはちょっと皮肉のつもりだったのですが、本気で取る人がいてびっくりしました。おかげで無粋な注釈をつけざるを得ない)。

http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

を見て感じること。それは「皮肉のつもりだった。馬鹿な読者のために注釈が必要だ。」と言っていると私は感じた。しかし考えてほしいことは、「皮肉として伝わらなかった」という事実がそこにある。これを読者側のせいだけにしていいのか?ということである。本人が如何に皮肉のつもりであろうと、皮肉として伝わらなかったのは文章に問題があるということである。そこには微塵の謝罪もない。
あるのは、馬鹿な読者への批判だけである。読者からすれば、「馬鹿な文章のおかげ本気になってしまった」というように見ることもできる。
 説明したら伝わる。というのは大きな間違いである。それがまかり通るのは「誰が読んでも分かりやすい」ということが前提だ。実際にこの教授の講義がどのようなものであったのかは解らない。しかし、皮肉を本気で取られてしまう文章を書く人が「誰が読んでも分かりやすい」というのは少し無理がある。


大学は「教授についてこれる人だけついてこい。」というスタンスなのも理解できる。付いて来れない人は切り捨てられる。「トリアージ」。まさにこの教授はそれを実践しているのだろう。しかし、一つだけ異なるのは、「付いて来れない生徒」を切り捨てることによって得られる社会的、組織的な貢献がどれほど得られるのか?本当に救うことはできないのだろうか?ということではないだろうか。
「付いて来れない生徒」が「かわいそう」だと思う。
何故なら、トリアージによって救われるべく患者(生徒)の能力がその低い技術力(指導力)によって決定されてしまうかもしれないからだ。