もったいないとか、価値がないとかって。つまらないとか、面白いって。

日常生活を送っていてよく、
「こんなやつに、かまっているのは、時間がもったいない。」
「こんなの誉める価値もない。」
なんてことばを聞くことがありますし、自分もよく言ってしまいます。
これは、これで、間違ってはいないと思います。本人にとって、時間がもったいないだろうし、本人にとっては、価値がないこともあるのだろうと、思います。


しかし、自分が思うに、これらの言葉は、第3者に言う言葉ではないと思うのです。
「価値がない。」ってことは、当人にには、「価値が見つけられない。」ってだけです。見る人によっては、価値があるモノなのかも、しれません。「もったいない。」という言葉も、その本人にとって、その対象物より他の対象物の方が価値がある。ということから、発せられることばです。ですから、ここでは、モノの価値について、考えます。
初音ミクで、オモシロさが分からないっていう人もいますが、それは、本人が、面白さを見出せないだけだと思うのです。そのものに、面白さを見出すのは一種の能力だと思います。
例えば、記事に「あ」とだけ書かれた文章があるとします。これを見て、価値を見出す人もいれば、価値がないと言ってしまう人もいるでしょう・・。価値を見出す人にとって、この「あ」は、何でこんなことが、書いてあるのだろうと、研究材料にしたります。誤りなのか、意図的なのか?誤りだとすると、こういう誤りは多いのだろうか?など、色々と話題が膨らみます。
それをひと言「この『あ』は価値のない。」って言ってしまうと、第三者からしても、「これは、価値がないのか・・。」という偏見の目で見てしまうこともあります。価値というものは、あくまで、対象と観測者が一対一の関係のもとに成り立っているのに、価値観を共有してしまうのです。これは、貨幣経済という、価値感を共有しようとすることの弊害かもしれません。お金も本来、全く他の人からみれば、ただの紙切れにすぎません。ところが、万人にとって共通の価値を測る尺度として使われていたりします。
ところで、本来モノがもっている価値というのは、モノがどれほどの価値を見出されるか?ということにあると思います。それは、あくまで、一人の人間が、「これには、価値がない。」といって、そのモノ本来の価値を決められるものではありません。そのモノ本来のもつ価値のあるなしは、見出される人がいて初めて定義されるものです。見出される人というのは、人間社会が存在する限り、変化するものですから、モノの本来の価値は、見出す人がいたという結果論、現在見出す人がいるという、事実に基づいていなくてはならないと思います。
芸術活動というものは、その典型です。イイと思う人がいて初めて価値が出るのです。ネット社会においてブログを書く意味というのは、価値を見出してくれる可能性を秘めた人にたくさん触れてもらえるということにあると、思います。一人の意見として、つまらない、面白くない、価値がないっていうのは、間違っていませんが、それは、あくまで、価値を見出せないだけです。初音ミクにしても、なんにしても、「価値を見出す」人が存在しています。ですから、モノとしては価値のあるものなのではないでしょうか?
エントリ下に文章をついでに載せておきます。これを読んでいただいた人は、この文章にどんな価値を見出しますか?

文章