釣りをしてでも書きたい記事。

釣り記事に対する雑感。
釣り記事。これは、自分の感覚としてだが、非難されていることであると思う。
実際よりも誇張したり、何か別の対象を非難することによって、読者を増やす行為である。書いていて、釣りだなあと感じる記事もよくある。
しかし、釣り記事にはもう一つ別の側面がある。
釣ることにより、確かに読者が増え、かつ、議論がひらがるということである。
本当に社会を変えようと思ってブログの記事を書いている人にとって、
大切なのは、記事の内容ではない。記事の内容によって、社会がどのような反応することこそが、大切なのである。
極端な話、そのような人にとって、本人の意図と全く逆のことを書いても、いいのだ。それを読んで真剣に考えてくれる人がそこにいるのであれば・・。よく文章を書くときに、「このような反論もあるであろうが・・。」みたいなことを書く人がいる。その上で「自分の意見はこうである。」といった類だ。
自分の意見だけでは、どうしようもない時、その時に釣り記事を書いてみるのは、一つの手だと思っている。「こういう考え方もあるのだ!」と自分で提示することにより、それを読んだ人から、それに対する反対の意見を聞きだす、つまり、真に自分が求めている考え方にたどり着くこともできるかもしれない。社会に対して、間違った意見を提示することにこそ、釣り記事は向いている。そこで、考えてほしいことがある。その手の釣り記事を書いた人自身を非難するということだ。
記事の内容にこそ、非難され得るべきであるのに、なぜか、それを書いた人をバカにするということがよくある。記事を書いている人も、また、人である。自分もそうであるが、色々な考え、思考を張り巡らせる時、「どちらも正しいのでは?」と、考えることがある。ただし、社会は、それに対して、正誤の判断を下さなければならない時もあるのではないか?と、考えるとき、記事を書いた人も、どちらも正しいと思いつつ、まず、非難を受けそうな内容を釣りとして、書いてみることもあるのではないか?というのが、自分の考え方だ。


明らかに釣り記事だと分かっても、あえて、それに、真っ向から意見をぶつけるってことも必要ではないか?
それを釣りだとスルーするのではない。それを書いた人を非難するのでもない。それに書かれている内容を忠実に考察する。


そんなことも、ブログを読んでいて必要なのかなって思うことがある今日この頃である・・。