意見に対する人格否定について考えてみた

意見の不一致による人格を否定する人を見かける。
「おまえの意見はくずだな。」
これは意見に対する批判だ。いかに意見が素晴らしかろうとなかろうと意見に対してその意見の根底を覆すものだ。
こういう意見に対して新たな意見や見解が生まれることもあるだろう。
これはどうだ。
「この意見はくずだ。故におまえもくずだ。」
このコメントの言いたいことは
「おまえ」→「くず」だと言うこと。
この意見を出した人は確かにくずかもしれない。(そうでないかもしれないが。)
しかしこの人がくずだったとしよう。ところがこのコメントの後に何が生まれるのだろう?
人格を否定したところで新しい見解は生まれない。つまりこのコメント自身は無価値なのではないか?場合によってはこの人のくずが如何に人生としてくずなものか?という議論になることもあるだろう。しかし多くの場合、ただこの意見を出した人を傷つけるだけにすぎない。
意見の批判であるならば、この意見を出した人も自分の意見がどこが間違っていたのかを考え直すかもしれない。
しかし、人格批判の場合は傷つくだけに終わる。この人をくずだと共感した人にしてもそうだ。世の中にはくずは五万といる。(人によってくずの定義は違うのだろうが。)人間である以上必ずくずだと思う存在はいるものだと思う。しかし、その中でくずを見つけたから何の意味がある?そのくずという人を傷つけたからと言って何が得られるというのか?
そもそも人格を否定するということは意見に対する議論をする意志はないのだろう。それ故に新たな議論も生じない。
自分がくずだと思う人を「くず」言うのは構わない。
しかし、それによって得られる利益はあるのだろうか?
これが顔見知り同士ないしはお互いよく知っている人なら話は分かる。
見損なったので以後自分はあなたと関わりたくないという相手への意思表示だ。
見知らぬ者に対して、「くず」だと思う心境はまだ理解し得る。
しかし「くず」だと言い放つ心境が分からない。