言いたいことを吐き出すように

「会いたい」「愛している」
「会いたくない」「憎んでる」
この人生の中で言いたいと思ったときに言えることは何回あるだろうか?何かを言いたいと思ったときそこに相手はいてくれるのだろうか?
時々考える。言いたいと思ったときに言わないのも選択肢の一つだ。しかし、言いたいときに伝えたい相手がそこにいるということは素晴らしい。言いたいと思ったときにはすでに伝える術がないことが多いのではないか?
それはウェブ上でもリアルでも同じだ。それがポジティブな意見であろうとネガティブであろうと言いたいと思った時には既にそこにはいない。
言わなければ良かったと後悔することもあるかもしれない。しかし実際に言わなかった場合を思い直してみると、それは言わないではなく言えなかったことの方が多い。臆病故に言えないのだ。
 それは上で書いたようにポジコメにしてもネガコメにしても同じだ。ネガコメを言わないといっている人はどうなのだろうか?ネガコメを言わないではなく言う勇気がないだけではないか?そう思うことがある。ネガティブコメントというものにも当然リスクが付きまとう。リスクは人によって違うだろう。例えば、気に入っているはてなユーザやその他の人にネガティブなやつだと思われたくないからかも知れないし、反撃を恐れているだけかもしれない。ネガティブなコメントを避けるという人はネガティブなコメントを言わないことに関して幾分かの勇気を振り絞っているのだろうか?その逆も然り。客観的な判断を下す方が簡単ではないか?時にそう思うのだ。そこには、ある程度揺るがない証拠という強い盾がある。しかし主観的な感想というものはその盾がない。好きだ。嫌いだ。と言えば共感を得られないこともままならない。
ほぼ全員が反感している中でポジティブコメントを書く勇気を私は持ち合わせていない。
その逆はまだ可能かもしれない。つまりほぼ全員が共感している中でネガティブコメントをするということだ。
故に私の中では「ポジ>ネガ>意見を噛み殺す」という順番で重きを置くことにしている。*1
ネガティブコメントが批判されているわけだが意見があっても実際には何もコメントを残さないこと。無視はまた別次元の問題を含むのでコメントを残さないこと自体が悪いとは思わない。無視とは興味がまったくなかった、ということもあり得る。流し読みしてみて興味がなさそうなものまでコメントを残していては、多くの記事が[興味なし]タグになってしまって面倒だ。
 そこで、私はコメントをできなかったものに関しては[cannot]のような分類も必要ではないかと考えた。
以後、[発言できなかった]というものを使用していきたいと思う。言いたいことはあるけれど、自分には発言する勇気がありません。というタグだ。その種の対象になるエントリは一体はてなではどれくらいあるのだろうか?
その内在的な意見を含めると一体世の中ではポジティブとネガティブどちらが多いのだろうか?それらを考慮しなければ真に集合知とはなり得ない。そう思うのだ。
 KYがもたらしたものは発言しにくい環境に他ならない。早い段階でネガという空気を作られれば、それを覆すのは容易ではない。
それを食い止めるには発言勇気がないという意思表示が必要ではないかと思うのである。


と言いたいことを書いてみたわけだが、きっと私のブログは内在意見を含めればポジティブなものに溢れているに違いない。
違わない・・。違って欲しい・・。違っていて当然だ・・。違っているだろう・・。違っているようだ・・。違っているかもしれない・・。違うはずがない・・。
ポジティブに溢れていることが違うはずがない!ん?ネガティブ沢山か?


ところでやはりぼんやりと考えながら書くとどうしても論点がずれる。
「理論的な文章を書かないことの利点」に続く。

*1:ただし書かれたときにネガは当然頭にくるのだが