理論的な文章を書かないことの利点

「あー!ダルい!!」
 昨今のブログ上で理論的でない文章は評価されない。感情だけに流された文章や論点のはっきりしない文章等は批判されがちだ。しかし理論だった文章だけで本当に良いのだろうか?と考えることがある。私はある種の専門家ではない。その専門家でない人が幾ら理論的なことを書こうが専門的な理論には遠く及ばない。しかし、感情ならどうだろうか?一般人としての感情は専門家の持ちえないものである。専門的知識に乏しい一般人がさも専門家にでもなったように偉ぶるのはどうだろうか?と考えるのだ。アルファブロガーなり誰であろうと、本を読むだけで専門家になれるのであればそもそも専門家は必要がない。たかだか一冊二冊の専門書を読んでその域に到達できるのであれば研究など必要ない。
医学的な本を読んでネットで少し調べただけで専門的な知識を得たと勘違いするなど愚弄だ。
 しかし、理論的でない感想は別だ。感想は各個人のものであって専門的な知識は必要がない。
私は一人の一般人としてこのような意見を持っています。というだけである。


 ところで話は少し逸れるのだが、倖田來未の発言を考えてみた。

倖田さんの発言内容を「全く医学的な根拠のないもの」として訂正。「深く反省し、心からおわび申し上げます」と陳謝した上で、再発防止に努めていくとしている。

「医学的な根拠はない。」当たり前だ。彼女はただの歌手だ。
これが医師だったら別だ。しかしただの歌手の発言に医学的根拠があると思う方がどうにかしている。「専門家でない一人の人間がこう思ってます。」と述べただけだ。だれが本当に「35歳を過ぎると羊水が腐る」と思うのか?

「妊娠と出産、女性の体について理解が十分でないと感じた」

十分な理解をした上でないと発言できないのであれば、専門家以外何も話せないことになる。言論の自由だ。その言葉に反感を覚える人もいるだろう。反感を覚える人全てを意識しなければならないなら、

バラエティ番組なんて全てやめてしまえ!!
お笑いなんて全て失くしてしまえ!!

十分に理解しないものがいい加減なことを話すからこそ面白さがあるのだ。十分に理解していない以上、ある種の誰かを傷つけるのは当たり前だ。発言するからにはそこに喜ぶものと傷つくものが生まれる。
 この文章は理論的ではない。感想だ。それは私は専門家でないので間違ったことを言います、という宣言でもある。感想は根拠もなければ素直に感じたことを書くべきだと思っている。例えそれが偏見に満ちているものであっても、感じたことを表現しているだけだ。感想を他者に曲げる自由はどこにもない。
いや、感想は他者により曲げられるものではない。

私にとってこの件はマスコミの策略にしか見えない。羊水の内容に同意するわけではないが、謝罪しなければならないということにはならない。