いじめ問題を少し考えてみた。

「いじめられたら先生に報告しなさい。」
〜先生に言ってどうなるのだ。それで解決するのだろうか?するわけがない。〜
これがいじめられている側の意見ではないだろうか。それは時として誤りではあるが間違っていないことも多いと思う。なぜか。先生に報告したところで具体的な解決策が提示されていないことが多い。また解決する保証もない。逆にいじめが過度になるリスクの方が高い。そういう感想を受ける。
 私が知り得る中で最善の方法は学校を変更するということである。しかしこれも根本的な解決策ではない。いついじめられるか分からないし、そう簡単に学校を変える勇気もないのではないか。
 いじめは早期の段階で発見すれば解決する可能性が高いという。根が深ければ深いほど解決は難しくなる。だが、いじめのきっかけとなる出来事が存在したとしよう。これを野放しにしておけば大きないじめ問題に発展するあるできことだ。しかしいじめられていると感じたが確証もない段階で疑えばそれこそが新たないじめの原因になる。人を疑うということはいじめの原因になるのに十分だ。可能性は十分に秘めている。
 しかし、いじめはダメだ。だから?これがいじめる側の言い分だろう。いじめが横行する際、いじめている側に罪の意識がない。といえばそうでもない。悪いと思いつつ加担してしまうことも多いのではないか。止められなくても止まらない、そういう傾向にあるのだろう。仕方なく。そんなこともあり得る。
 いじめの中にも二種類ある。金銭目的系と単純いじめ系。これを同列で扱うのも問題だ。前者はお金を得るという目的が明確化している。際限がない。それは凶悪犯罪として扱うべきであり刑事問題だ。

いじめ問題は少々頭を捻ったからといって解決できる問題ではない。それを現場を知らない政治家が会議室で議論したところで解決策が出るとは思えない。そうでなければ、とっくに無くなっているはずだ。
 時折考えることがあるがやはり考えがまとまらない。それは私にいじめはあって当然だという意識が働いているのかもしれない。無くなればイイとは思いつつ。
 ところで、いじめ問題は日本社会全体の問題として捉えた場合どのような副作用を齎しているのだろうか?問題に直面している方には非常に申し訳ないとは思うのであるが、社会に対する恩恵はあるのだろうか?絶対悪であるのか?そういうことも考えてみたりもする。
 ただ前もって言っておくが私はいついじめる側に回るかもしれないし、いじめられる側に回るかもしれない。ただ共に私は望まない。