「ばか」と「大バカ」

はじめに

私は「ばか」な人を尊敬したりはしません。しかし、「大バカ」な人は尊敬しますし、応援もします。
ここでは私の主観で書いて行きたいと思います。

私の考える「ばか」と「大バカ」の違い

1.「ばか」は相手にされないが、「大バカ」は多くの人間を巻き込む人物である。

「ばか」であっても「大バカ」であっても、人に「馬鹿」扱いされることに変わりはない。その人を「馬鹿」と罵る人物が双方にいることに注意して頂きたい。その上で何が違うのか?


多くの人を動かす力を持っている「ばか」を「大バカ」と私はここで定義したい。


「ばか」が独りよがりなのに対して「大バカ」は多くの人間を動かす。迷惑と感じることによって動く人物もいるだろう。しかしながら、多くの場合「大バカ」には味方が存在する。


「何故、こんな馬鹿な奴の味方をするのか?」と言う人がいるかもしれない。
その問いに私はこう答えるだろう。
「大バカだから。」と

2.「ばか」は才能のない人間、「大バカ」は才能のある人間

多くの人間を動かせるということは一つの才能である。常人より遥かに多くの人を動かすことができる「大バカ」は才能のある人物だと言える。では、その才能のある人の中で特にその才能が優れている人を何と呼ぶか?「天才」と呼ぶのである。
つまり、極めて「大バカ」である人間は「天才」であると私は思っている。


これをベクトルでイメージしてみる。
ベクトルの長さを才能だと思って欲しい。「大バカ」と呼ばれる人物のベクトルは、一般的な人と全く別の方向を向いている。他の一般人が2次元平面内で表している時に「大バカ」は3次元の方向を向いていると考えてみる。当然2次元の人からは、3次元の才能を見ることはできない。ただの「ばか」と区別ができないのである。「馬鹿」扱いしているわけである。ところが、3次元平面で才能を捕える別の天才がいる。その人から見えれば「大バカ」もやはり「天才」なのである。ただ、それでも普通は+方向に向いていることが多いのに対し、「大バカ」は-方向に向いていることもあるのだが。

3.行動力と精神力の差

何故これほどまでに、多くの人間を動かすことができるのか?それは、行動力と精神力の差ではないだろうか。そこに「ばか」が「大バカ」へと進化する道が隠されている。人々を動かすためには、「行動力」は不可欠である。逆に言えば「馬鹿」な行動を数撃てる人間は「大バカ」になることができる可能性を秘めていると思う。それを行うためには、強い精神力は不可欠である。何故なら、第一発目の「馬鹿」な行動を行った時点で「馬鹿」扱いされるのは目に見えている。その罵倒に耐え、二発目、三発目を放つためには罵倒に打ち勝つ精神力が必要である。「大バカ」は強い精神力の持ち主でないとならない。ここでも「大バカ」の才能が見て取れる。普通の「ばか」は一発目で止めてしまうのである。

4.「馬鹿」を放ち続ける才能

普通の「ばか」でも二発目、三発目の「馬鹿」を放つことはできるかもしれない。では、それを百発放つことができるだろうか?「ばか」であれば、百の「馬鹿」を思いつくことはできないと思うのである。一方で、「大バカ」たる人間は「馬鹿」を百だろうと千だろうと放つことができる人間だろうと私は思う。百の「馬鹿」を考えることができるということは、やはり才能の持ち主である。

5.「大バカ」は可能、不可能という線引きをしない。(追加)

「大バカ」の最大の強みは「可能、不可能」で考えないことである。
「試してみるか、みないか」だ。
早い話が「無理だろうな」と思いながらであっても、まずは「試す」ことが先なのである。
やってみなければ、分からない。そこら辺が「馬鹿」扱いされる所以でもあるのだが、最大の武器でもあると私は思う。
机上の空論という言葉があるが、「大バカ」にとってこの言葉ほど似合う言葉はないだろう。
やってみなければ、分からない。だからまず、行動するのである。

私が思う、「大バカ」である人間がやるべきこと

「馬鹿」を数撃てる「大バカ」は「馬鹿」を放ち続けろ

「大バカ」が「優秀」になる必要はどこにもない。


例えば、「大バカ」が放った出来の悪い弾丸が一発あったとしよう。一般的に出来の悪い弾丸を放てば「ゴミ」として扱われがちである。多くの人間は「ゴミを捨てるな」と言うであろう。そうなった時に、「大バカ」は出来の良い弾丸を放とうと考える必要はないと私は思う。出来の悪い弾丸を修復して出来の良いものに変えることのできる人間は他にいるからだ。仮に「出来の悪い弾丸を連発できる『大バカ』」と「出来の悪い弾丸を出来の良い弾丸に変える『天才』」の二人が組むことができるなら
「出来の良い弾丸を連発する『天才コンビ』」と称される筈である。


まずは「大バカ」がすべきことは最良のパートナーを探すことである。そのパートナーさえいれば、「馬鹿」を数放てばいいのである。いや、「馬鹿」を数放つことこそが最も重要視される役目になるのである。

最後に

私は「大バカ」を応援する。

「馬鹿」扱いされた、彼や彼女を私が応援する理由。それは彼らが「ばか」ではなく、「大バカ」という天才だからに他ならない。
現に、その「大バカ」は多くの人間に影響を与えている。
社会的に「天才」と呼ばれるその人間さえ動かすことができた彼らもまた天才だと私は思う。


ただ、常に「馬鹿」と呼ばれる宿命を背負ってはいるのだが。