飯降山を見た。-自分を見失うということ-


 話を簡単に説明する。

山に修業に修行に来た三人の尼さんがある日空から降ってくる3つのおにぎりを見つける。毎日おにぎりは降ってくる。ある日欲を増した尼さんの一人が禁じられている鳥を食べる。それを疑った一人が他の二人に・・。その後おにぎりは2つになってしまう。残った二人のうち片方が悔いていると言い出す。するとまた一人・・。するとおにぎりは一つも振ってこなくなった。残った尼さんは最後に見るも無残な姿になってしまう。過去にお弁当を頂いた人に「私ですよ。」と言うところで話は終わる。

 飯降山を見たことがある人も多いはずである。少し前に日本昔話のアニメがようつべにアップされて話題になったものである。
昔話の解釈は人それぞれだろう・・。色々と解釈できるところがまた昔話の面白いところではある。
この話を見た私の感想を少し書いてみようと思う。


 この尼さんの姿、実におにぎりにそっくりではないか?と思われた方も多いはず。事実、尼さんがいなくなるとおにぎりもなくなっている。
 ところで、この最後に残った尼さんのセリフにこのようものがある。正確な言い回しは覚えていないが、
「何をしてでも生き残った者が御仏に近づく道なのです。」というようなセリフだ。
何をしてでも生き残る。生き残らねば何も伝えることはできない。死人に口なしとはよく言ったものである。
途中でいなくなってしまった尼さんの二人は何も伝えることもできないし、あながち間違ってはいない。
そこで何故最後に尼さんが一人いるのにも関わらずおにぎりはなくなってしまったのか?
それはすでに自分自身を失くしてしまった尼さんがそこにいたのではないか?と私は思うのである。
生き残るためという理由を盾に私利私欲のために人を殺めるということ。それは自分を失くすのではないか?と思うのである。
本当に最後の尼さんにとってあれらの行動は必要だったのか?答えはNOだ。


自分の行動が正しいと信じるのはいいことである。しかし、その信仰を言い訳のように利用し相手を傷つける時、自分を見失う。
そんなことをこの作品は教えてくれる。自分にとって必要なこと。それは本当に必要なのか考えてみるのもいいかもしれない。
また、この尼さんが最後に見るも無残な姿になってまで伝えようとした「私ですよ。」という言葉。
人は自分の信念に従った場合美しいものではなくそれは汚いものではないか?
それでも私は自分の信念従って生きていく。おそらくそれは醜いものだ。
私はあの尼さんをしっかりと目に焼き付けておこうと思う。


一度ご覧になってみてはいかがでしょうか?日本昔話は単純であるが故に奥が深い。